2017/07/23

崩壊する現代アート(福井県立美術館)

久しぶりに福井県立美術館へ行って来た。

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今、開館40周年記念名品200選が10月22日まで公開されている。
観覧は「ワンコイン・パスポート」が発行され500円で会期中何度でも観覧できる。

7月30日までは「院展の巨匠たち」7月7日~8月27日までは「現代アート大絵巻」8月2日~8月27日までは「江戸の美術」9月15日~10月22日までは「日本画への挑戦」といったぐあいに期間を一部重複させての開催。

この4つの展覧会を全て見るとオリジナルグッズがもらえるというスタンプラリーも行なっている。

殺人的な暑さの中、涼しい美術館で過ごすのはとても気分のいいもの。
しかも毎日行ってもパスポート持っていれば期間中は無料。
市内の人が少し羨ましい。

さて、いささか過激な見出しになったが、現代アートの作品のいくつかは今までに何度か拝見したもの。
そしてその作品が徐々に形を変えている。作家の手が入ったわけではない。移動、保管、展示。これらのサイクルを繰り返すうちに、または展示中何らかのささやかな勿怪。
それもまた観賞の対象となる。

40年の間に壁や床は何度か新しくしたようだ。ぼくはエントランスから左に上がる階段の石の壁面が好きだった。
所々に石英の結晶を見つけ手に触れたものだ。ぼくの怪しい記憶が間違っていなければこの壁面だった。

くたびれた空調の匂い。ぼくの歩調に全く合わない階段とそこに敷かれた妙に毛足の長い赤いカーペット。こういう感じってちょっといいよね。

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2008/04/04

「総理官邸に放火しそうな人」

エキサイトニュースを見ていたら「<卒業文集>『官邸に放火しそうな生徒』ランク付け」という見出しが目についた。
山梨県甲斐市の中学校の卒業文集に「総理官邸に放火しそうな人」という項目で生徒のランク付けが記載されたと言うもの。

担任教師の指導のもと生徒が編集委員を務めた。学校側は「冗談のつもりだったが、配慮が足らなかった」と述べているらしい。
このようなことを「冗談のつもり」と思う学校側のあきれた言葉。

卒業という生徒の門出に際して、担任をはじめ関係した生徒、学校側は名前が掲載された生徒に対していじめをしたようなものだ。

学校側は文集は回収しなかったという。
思いでの文集に不愉快な項目が永遠に残る。

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2008/03/29

私の娘・私の息子

「横尾さん作品差し替え/教科書検定・高校美術」という見出しの新聞記事があった。(3月26日付・中日新聞朝刊) 朝日新聞の記事はこちら

問題の教科書掲載予定だった作品は「1965年の舞踏講演ポスター」その中の「私の娘展示即売会場」という文言が問題になり他の作品に差し替えられたという。
横尾忠則さんは「私の娘」とは、私の作品のこと。(作品は芸術家にとってある種の子ども・舞踏を講演会場で売るという意味)文科省は想像力貧困と述べている。

教科書に掲載された文言の文字は1ミリ程度の大きさという。
(3ポイントより小さい。1ポイント約0.3528ミリとした場合)
実際には「場會賣即示展娘の私」と左方に印刷されている。

美術の教科書でここまでやらなくても・・・一つの作品をここまで難癖つけなくてもいいじゃないか。とも思うけれど、このポスターの本来の役目は「舞踏講演」だったはず。
教科書掲載が目的の作品ではないはず。
文科省をクライアント(依頼人・顧客)とするのはちょっと無理があるけれど、クライアントの要請により作成されたポスターではないのです。
世間では優れていると認められていても、クライアントの意に添わなければポイされるわけです。今回は出版社が掲載を決めたものの、親方である文科省がダメといえばそれに意見などするのが無駄です。文科省とはそういうところだということです。

ただ、これは僕個人の思いですが、このポスターの製作された1965年の感覚ではそうでもなかったのかもしれませんが、「私の娘展示即売会場」と言う言葉はたとえ横尾氏がおっしゃる「作品」という意味であったとしても、現代においては、あまりいい言葉でないと思うのです。「私の息子展示即売会場」だったらどうなるんでしょう。あんまり変なこと書くといらぬTBがあるかもしれません。なるべく誤解を招く用語は避けて書いているつもりですが、ジェンダーバイアスの香りが微かに・・・。

美術の教師が自己判断で参考作品として使うのもいけないのでしょうか?

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2008/01/26

有料特別授業。

「東京都の杉並区立○○中学校で、進学塾講師による有料特別授業が始まった。」とテレビで報じられていた。
「絶対に効果がある」という校長の言葉が印象的だ。
この自信のある言葉とは裏腹に、不穏当な言辞を鬱するどこかの経営者のようでもある。

月謝をとり大手進学塾から講師を派遣し、成績が上位の生徒だけを対象にした授業。
地域により教育に格差があるのはしかたないとしても、一つの公立中学校内でこのような授業はどうも不公平を感じてしまう。
教育の平等という観点からすればやはりおかしい。
主催は保護者らでつくられた地域本部で月謝もそこに納めるらしい。

その地域本部と塾との関係がよく分からない。地域本部というのが生徒と学校の間に入る事により公共(学校)の建物を使い、料金を取って授業(仕事)をするのはどうなんだろうという疑問をやわらげるためか。
区教委は「公共性がある活動で営利性はない」と言っているが、塾も企業。営利性のない仕事を請け負ったというのか。

営利性がない(非営利)という意味がこれまたよくわからない。特定非営利活動法人のように「収益を分配せず、主たる事業活動に充てる事を意味し、収益を上げることを制限するものでない」と理解していいのか?
とはいえ、公立の学校で特定の塾の講師が特別授業を行ったという事は広く報じられ、結果この塾の広報宣伝活動になったんじゃないのか。

この中学校の常識的な枷にとらわれない考え方は評価したいが・・・

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2008/01/11

年が明けて11日。

気になるCMがある。
家庭教師の○○○の「合格パック」編CM
顔に落書きしていくあの広告だ。

落ちこぼれてしまうような子も(中略)その次のテストでは大体80点が取れるようになったと言うような経験があります。去年の話です。
このCM昨年から流れているけれど年が明けても「去年の話です」のまま。

「家庭教師の一つの大きな役割」ってなんだ?
視覚的にあの落書きにばかり目がいってしまい、いったい何を言いたいのか解らない。
CMが理解できないのはやっぱり頭に問題があるのか。

CMに当てはめれば、落ちこぼれてしまうような僕でもじつはすごく能力があるのだろうか?

「次のテストでは10点しか取れず、やっぱりダメだったと言うような経験があります。去年の話です」

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2007/04/16

学校給食。

「とくダネ!(フジTV)」で学校給食のアレルギー対応について放送されていた。
命に関わる事なので大切な事ではあるけれど、ふと思ったのは昔はアレルギー対応の給食などなかったけれど、学校給食で死に至る事件など記憶にない。あったのかもしれないけれど、僕は記憶が無い。

嫌いなメニューでも無理やり食べなければならなかった。
クラスには一人くらいは(ポリバケツ)生ゴミ減量係みたいな「食べること命」の人間がいたもので、そういう恩恵に被れない不幸な人は食べなければ放課後まで机におかれていたものだ。好き嫌いなく、完食するのが教育のような時代でそこには美味い、不味いの感覚は意味をもたなかった。
クラス一丸(教師含む)になった「いじめ」のようだがそれが教育だと思っていた。
ものを食べれる事に感謝。そういう考えが第一だった。もちろん「食べれる事に感謝」これは大切な事だ。

先の番組では「今後グローバル化が進めば、国籍や宗教の違いから、食べれない(食べてはいけない教え)と言った問題も出てくる。」と言っていた。
でもこれは変な話で、アレルギー対応の話とは次元が違う。学校給食が宗教、国籍に対応などする必要はない。仏教徒(僧侶)だって○○教徒だって牛肉を食べても死にはしない。ま、この手の話を書くと石が飛んできそうなのでこれ以上は書かなが、とにかくどこの国に住んでいようが、何を崇めていようがそれが原因でアレルギーで死ぬような事はないということだ。

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